エッフェル塔のお色直し

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TECHNOLOG
エッフェル塔のお色直し

パリオリンピックとエッフェル塔
パリオリンピックとエッフェル塔

 2024年(令和6年)の夏は,パリ五輪のニュースでテレビはハイジャック状態になった。開会式は,夏季五輪として初めて競技場以外の地・セーヌ川沿いで開催された。パリ市中心部のセーヌ川を選手団は船で航行し,式典のクライマックスは,エッフェル塔を彩る光のショーが展開し,川沿いの多くの人々を魅了した。今やパリ市街地を紹介する映像が流れる際には,必須のアイテムとしてエッフェル塔が映し出されている。

 このエッフェル塔は,1889年(明治22年)のフランス大革命100周年を記念して開催されたパリ万国博覧会の象徴的なパピリオの一つとして計画され,建設コンペの後,ギュスターブ・エッフェル作品が当選し,建設されることになった。2024年(令和4年)で築130余年間,セーヌ川沿いにパリを象徴する鉄塔として,聳えている。


 この世紀を越えて存在感を発揮している鉄骨工作物の維持管理の内,塗装改修工事について,検討してみた。エッフェル塔に関連する書籍は多数あるが,工学的に記述があるもののうち,詳細な「エッフェル塔年譜」が添付されているものを参考にした。


 1889年3月31日に竣工したエッフェル塔の建設当時の塗装色については,記録が残っていない。第1回目の塗り替え工事は,3年後に「黄土色」で塗り替えたと記録されている。(具体的なマンセル番号等は,残されていない。)それから,7年後の1899年に塗り替え工事を施工し,その際には「基部は濃く上部は薄く,黄色の濃淡で塗分け」したと記録されている。(より高く見せるための工夫か?)


 1900年にパリ万国博覧会とパリ五輪を当時開催したが,4年後には「古都パリ保存委員会」が,万国博覧会のパビリオンの一つであったエッフェル塔の解体撤去の提案決議をしたが,様々な協会・委員会・議会などから抗議・存続の要望・反対決議・保存の要請の声が大きくなり,紆余曲折を経て,解体せずの結論で今日に至っている。現在では,エッフェル塔は,パリの景観にすっかりなじみ,観光名所にもなっている。技術者・ギュスターブ・エッフェルの美意識の勝利といえる。


 3回目・4回目の塗り替え工事の色については記録にないが,4回目塗り替えの開始は1914年であるが,第一次世界大戦のため塗り替え工事を中断し,1917年に塗り替えを完了したと記録にあった。


エッフェル塔の塗り替え工事の様子

 
 ギュスターブ・エッフェルは,1923年12月に物故しているが,翌年の1924年の塗り替え工事では,エッフェルが「石灰岩の外壁の多いパリの街になじむ色」として選択した「黄茶色(ジョーヌ・ブラン:Jaune-brun)」で塗り替え工事を行っている。
 

 
 その後の塗り替え工事においても,塗装色の記録は色々と変化しており,「赤茶色」⇒「グレー・ベージュ色」⇒「エッフェル塔の茶色」と色の表現は様々である。
 
 今回のパリ五輪に向けて,2022年に20回目の塗り替え工事を施工した報道がされていたが,塗装色は,エッフェルが選択した「黄茶色(ジョーヌ・ブラン:Jaune-brun)」であった。

 エッフェル塔開発公社の資料によると,塗り替え工事の手法は,当初と同じ方法で行うこととされ,人の手による塗装であり,塗装工は手にはブラシを持ち,機械による工事(長い柄のついたブラシ・吹付塗装器具)は使用禁止されている。


1889年竣工のエッフェル塔は,2022年に20回目の「お色直し」をしたことになるが,単純計算すると約6.6年毎に塗り替え工事をコツコツと積み重ねてきたことになり,「継続は,力なり」のお手本であろうか。


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パリオリンピックとエッフェル塔
パリオリンピックとエッフェル塔

 2024年(令和6年)の夏は,パリ五輪のニュースでテレビはハイジャック状態になった。開会式は,夏季五輪として初めて競技場以外の地・セーヌ川沿いで開催された。パリ市中心部のセーヌ川を選手団は船で航行し,式典のクライマックスは,エッフェル塔を彩る光のショーが展開し,川沿いの多くの人々を魅了した。今やパリ市街地を紹介する映像が流れる際には,必須のアイテムとしてエッフェル塔が映し出されている。

 
このエッフェル塔は,1889年(明治22年)のフランス大革命100周年を記念して開催されたパリ万国博覧会の象徴的なパピリオの一つとして計画され,建設コンペの後,ギュスターブ・エッフェル作品が当選し,建設されることになった。2024年(令和4年)で築130余年間,セーヌ川沿いにパリを象徴する鉄塔として,聳えている。

 
この世紀を越えて存在感を発揮している鉄骨工作物の維持管理の内,塗装改修工事について,検討してみた。エッフェル塔に関連する書籍は多数あるが,工学的に記述があるもののうち,詳細な「エッフェル塔年譜」が添付されているものを参考にした。

 1889年3月31日に竣工したエッフェル塔の建設当時の塗装色については,記録が残っていない。第1回目の塗り替え工事は,3年後に「黄土色」で塗り替えたと記録されている。(具体的なマンセル番号等は,残されていない。)それから,7年後の1899年に塗り替え工事を施工し,その際には「基部は濃く上部は薄く,黄色の濃淡で塗分け」したと記録されている。(より高く見せるための工夫か?)

 
1900年にパリ万国博覧会とパリ五輪を当時開催したが,4年後には「古都パリ保存委員会」が,万国博覧会のパビリオンの一つであったエッフェル塔の解体撤去の提案決議をしたが,様々な協会・委員会・議会などから抗議・存続の要望・反対決議・保存の要請の声が大きくなり,紆余曲折を経て,解体せずの結論で今日に至っている。現在では,エッフェル塔は,パリの景観にすっかりなじみ,観光名所にもなっている。技術者・ギュスターブ・エッフェルの美意識の勝利といえる。

 
3回目・4回目の塗り替え工事の色については記録にないが,4回目塗り替えの開始は1914年であるが,第一次世界大戦のため塗り替え工事を中断し,1917年に塗り替えを完了したと記録にあった。

エッフェル塔の塗り替え工事の様子

 
 ギュスターブ・エッフェルは,1923年12月に物故しているが,翌年の1924年の塗り替え工事では,エッフェルが「石灰岩の外壁の多いパリの街になじむ色」として選択した「黄茶色(ジョーヌ・ブラン:Jaune-brun)」で塗り替え工事を行っている。
 

 
 その後の塗り替え工事においても,塗装色の記録は色々と変化しており,「赤茶色」⇒「グレー・ベージュ色」⇒「エッフェル塔の茶色」と色の表現は様々である。
 
 今回のパリ五輪に向けて,2022年に20回目の塗り替え工事を施工した報道がされていたが,塗装色は,エッフェルが選択した「黄茶色(ジョーヌ・ブラン:Jaune-brun)」であった。

 
エッフェル塔開発公社の資料によると,塗り替え工事の手法は,当初と同じ方法で行うこととされ,人の手による塗装であり,塗装工は手にはブラシを持ち,機械による工事(長い柄のついたブラシ・吹付塗装器具)は使用禁止されている。

1889年竣工のエッフェル塔は,2022年に20回目の「お色直し」をしたことになるが,単純計算すると約6.6年毎に塗り替え工事をコツコツと積み重ねてきたことになり,「継続は,力なり」のお手本であろうか。

坂本 良髙
技術営業部 顧問

一級建築士
技術士(建設部門)
一級建築施工管理技士
コンクリート主任技師
京都府木造住宅耐震診断士

  • 山口県生まれ
  • 京都競馬場の建設や大阪城天守閣「平成の大改修」に携わっていた。
  • オーストラリアなど海外旅行にも出かけ、日本酒よりもワイン好き!
  • 運動不足の解消のために、週一回のペースでシニア健康ボーリングに通い平均スコアは150点辺り、たまに200点を超えるとディナーに出かけます。
  • 放送大学に14年間通って、6コースすべて卒業する行動派!

 住まいのお困りごとは、なんでもお気軽にご相談ください。

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